天野屋利兵衛は男でご座る
京都一番のにぎやかポイントである四条寺町交差点を寺町通り沿いに(南に)100メートルほど下がったところに聖光寺があります。寺町通りは、豊臣秀吉が京都の寺を無理やり強制移転させた通りで、かつては寺が立ち並んでいた通りですが、今では多少面影を感じる程度となっている場所です。
聖光寺の由緒については、駒札をご覧ください。
門前に「天野屋利兵衛は男でご座る」と彫り込まれた石板が置かれています。
天野屋利兵衛を知らない人でも男気を感じさせる言葉であり、何者かを知りたくなります。
石板の下を覗くとそこには、赤穂浪士を陰で支える天野屋利兵衛の墓所地と彫り込まれています。
時はまもなく1700年、大阪商人で屋号「天野屋」の五代目利兵衛は、大名屋敷の御用商人として繁盛していましたが、事業に失敗して破産してしまいました。取引先の一つであった赤穂藩浅野家は、「赤穂の塩」の全国販売で裕福であったことから、天野屋利兵衛に「赤穂の塩」の販売を許可し、利兵衛の窮状を救ったのです。
その後、江戸城で赤穂藩主浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が刃傷(にんじょう)事件を起こして浅野家断絶となりました。赤穂藩浅野家に恩義のある天野屋利兵衛は、浪人となった赤穂藩家老の大石内蔵助(おおいしくらのすけ)からあだ討ちのための刀剣の調達を頼まれ、引き受けるのです。
赤穂藩の浪人たちが不穏な動きをしているのではないかとの疑いがある中で、苦労して刀身の短い特製の刀剣を調達した利兵衛は、武器を密かに江戸に運び込みました。
人目を避けて密かに武器を調達していた利兵衛ですが、蔵から子供たちが持ち出した「縄梯子(なわばしご)」が役人に見つかり、逮捕され拷問を受けます。
しかし、利兵衛は「天野屋利兵衛は男でご座る」と大見得を切って白状しませんでした。
利兵衛は牢獄で吉良邸討ち入り成功の報を聞いて、始めて武器調達を認めたといわれています。
この天野屋利兵衛と、大石内蔵助の母お熊の墓が聖光寺にあるのです。
おしまい・・・
と言いたいところなのですが、話はちょっと複雑になります。
京都北区大将軍川端町にある地蔵院(通称:一条椿寺)にも、天野屋利兵衛の墓があり、どちらかというと地蔵院の墓の方が有名なんです。
しかも、天野屋利兵衛という人物は実在しなかったようなのです。武器を必要としなくなった元禄時代、時代遅れのあだ討ち騒動を起こした地方の武士たちに庶民が拍手喝さいし、源義経とともに芝居や講談の材料としてあることないこと作り上げられていった英雄伝説というわけです。
どこまでが真実か、今となっては昔のことで・・・
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