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猿ケ辻の変  Saru ga Tuji
現在の京都御苑の案内図です。(御苑内の案内板)
 
江戸末期、ここは日本の歴史を変える様々な事件が起きた場所です。しかし、現在は広大な緑の公園として京都市民に親しまれています。

京都御苑の中ほどに、「京都御所」があります。明治初年まで天皇の住まいであった場所です。年に2回御所開きといって一般公開(許可証なく自由参観できる)されますが、それ以外の時でも宮内庁にインターネットで申しこめば、許可証が発行され参観が可能です。

(写真をクリックすると画像が拡大します)



幕末の京都御所と公家屋敷などです。(京都御苑内案内板)

上図と比べると現在緑の公園となっている場所に宮家・公家屋敷が立ち並んでいたことがわかります。明治初年に天皇とともに貴族が東京に移転したあと、京都は急速に錆びれ、京都御所周辺も荒れ果ててしまったため、現在の京都御苑の姿に作り変えられました。

幕末、この場所で幕府存続派(佐幕派)と天皇中心派(尊皇派)、外国を排除し鎖国を続ける派(攘夷派)と開国派など様々な思想が激突しました。

写真赤丸部分、京都御所(当時の皇居)の北東角だけがへこんでいます。
これは、北東が鬼門(きもん)の方角であるため角(つの)をとって鬼門除けとしているのです。



ここが現在の猿ケ辻です。
明治初期まではここに多数の貴族の邸宅が立ち並ぶ交差点だったのです。








この場所が「猿が辻」と呼ばれるのは、この御所北東角の築地塀軒下に猿が閉じ込められていることによるものです。

日中でも軒下は暗くて、意識して目を凝らして見ないかぎり、ここに猿がいることは気がつきません。



この猿は鬼門の魔よけで災難が「サル」に通じています。京都北東の山で京都の鬼門を守る比叡山延暦寺の使いと言われます。比叡山の末寺である赤山禅寺や、地主神を祭る日吉大社にも猿がいます。

この猿、烏帽子をかぶり御幣(ごへい)を肩に担いだ横向き姿です。金網に閉じ込められたのは、夜な夜な警護すべきこの場所を抜け出してはイタズラをしたためといわれています。


さて、幕末の文久3年(1863)5月20日夜、この猿ケ辻を通りかかった青年公卿の姉小路公知(あねこうじきんとも=25歳)が、何者かによって切り殺されたのです。犯人は上に記載した築地塀のへこみに隠れて待ち伏せしていたと言われています。【猿ケ辻の変】

【写真は2004年 時代祭。写真右は尊王派公卿(勤王派)の近衛忠ヒロ、後ろの橙色の服が姉小路公知 】



【2005年 時代祭の姉小路公知です。】


なぜ姉小路公知は暗殺されたか?当時、外国から開国を迫られていた徳川幕府ですが、無策でした。
これに対し攘夷(外国を排除する)の急進派であったのが公卿の三条実美(さんじょうさねとみ)、近衛忠ヒロ、姉小路公知らでした。
結局、公卿の穏健派の反対にあうとともに、開国派や倒幕派から命を狙われることになっていったのです。



では、だれが姉小路公知を暗殺したのか? 現場に落ちていた刀が、薩摩藩の用心棒:田中新兵衛のものと判明した。事件後に田中新兵衛は自害するが、薩摩藩は、田中新兵衛の刀は盗まれたもので新兵衛の自害はそれを恥じてのことだとして事件とのかかわりを否定。

いまだに真犯人はわかっていません。
真犯人は猿だけが知っている・・・これが、このお話の締めことばになっています。







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