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今も残る新撰組の刀傷跡
京都には現在も新撰組にまつわる歴史跡が多数残っています。当時(幕末)の京都は、幕府を倒して天皇が国を治めるべきという尊皇派(長州など)と、幕府を補佐し倒幕を企てる輩(テロリスト)を検挙しようとする佐幕派(会津藩と新撰組など)の大きなグループ、外国を排除しようとする考えの攘夷派と、先進国の知識を取り込もうとする開国派など様々な思想が交錯する日本国のターニングポイントだったのです。

ここ三条大橋は、京都の東玄関口でした。この橋の西約100mのところに旅館池田屋がありました。
1864年6月5日、京都に火を放つ計画をしていた長州藩過激派が何処かの旅館料亭に集結するとの情報を得て、内偵していた新撰組(近藤勇他10名)は夜10時に池田屋に踏み込んだのです。


池田屋に集結していた長州過激派は約30名と言われておりいずれも猛者であったようです、近藤隊10名の新撰組は、土方歳三ら24名(土方隊)が救援に駆けつけるまで約1時間以上を暗闇の中で戦ったようです。

事件は池田屋の家屋の中だけで戦ったものと思っていましたが、約100m離れた三条大橋に、当時の刀傷らしきものが2箇所残っていることがわかりました。
写真は鴨川にかかる三条大橋南側の擬宝珠です。 左写真の擬宝珠に残る刀傷です。
写真は三条大橋北側の擬宝珠です。 左写真の擬宝珠に残る刀傷です。
この池田屋事変を無事解決したことにより新撰組は一躍有名になるのですが、一方で後世には明治維新が遠のいた事件
とも評されるなど、保守側に立つか革新側に立つかで同じ事象が全く異なった評価となります。



下京区西部に島原と呼ばれる地域があります。呼ばれるということは、地名ではありません。島原については別の機会に紹介することにします。
この島原は花街なのですが今は京都五花街(かがい=祗園甲部、祗園東、宮川町、先斗町、上七軒)には数えられません。
島原には芸妓・舞妓は存在せず、太夫(たゆう)がいます。太夫は朝廷の官位を持つ別格の存在なのです。
島原の格式高い料亭(社交場)を揚屋(あげや)といいました。他の花街にある社交場「お茶屋」よりはるかに格が高かった場所です。
写真は島原に現存する揚屋跡の角屋(すみや)です。
幕末、ここは政治家や実業家の社交場であり、新撰組隊士たちもここで飲食をしていました。
この角屋(すみや)の玄関を入ったところにある柱に大きな刀傷があります。
この刀傷には諸説あります。

1.芹沢鴨が角屋の対応の悪さに立腹して食器や置物を壊して回った上で、柱に切りつけたものという説。

2.近藤勇が警告のために切りつけたという説。

3.当時、新撰組は島原北側の壬生寺を屯所としていたが、資金が不足していたにもかかわらず隊士たちが高級な角屋でツケで飲食し、支払いに苦労していた。また、隊士の乱暴狼藉に島原も辟易していたことから、新撰組は隊士に対して角屋への出入りを禁止した。
それを知らずか、いつものように角屋に出かけた隊士が角屋から出入りを断られて、怒りにまかせて柱に切りつけたという説。

たぶん3の説が正しいのではないかと思われます。


島原で乱暴を働き嫌われていた新撰組は幕末以来、島原から絶縁されていました。
2005年6月5日、島原の太夫が壬生寺を幕末以降初めて訪問し、新撰組との和解を果たしました。
写真は、壬生寺の新撰組の墓碑を参拝した太夫です。

上記の他にも、壬生寺隣地の八木邸には、芹沢鴨暗殺時の戦い時の刀傷も残っています。
平和な現代と比べなんとも激動の時代であったことがしのばれます。



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