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方広寺 豊臣家を滅ぼした
国家安康の鐘
東山区の方広寺(ほうこうじ)は、今では地図を見ても、現地に行ってもどこにあるのかわからないような寺です。現地に行くと国立京都博物館の北隣に豊国神社があり、さらに北隣に方広寺があります。
しかし、1586年に豊臣秀吉により創建された当時は現在の京都博物館を含めて広大な敷地を持つ寺だったのです。

当時、左写真の鐘楼の約100mほど奥に高さ50m、幅82mという巨大な建築物があり、その中には高さ
19mというな金銅の大仏がありました。これは、奈良東大寺の大仏より大きかったのです。
しかし、この大仏殿は10年後(1596年)に大地震により倒壊してしまいました。
その後、何度か再興されましたが、地震や火災により消失しています。今は、写真左の本堂、その奥の小さな屋根の大黒天堂、右の鐘楼が残るだけです。
本堂にあるご本尊の盧舎那佛(ルシャナブツ)坐像です。秀吉が作らせた19mの大仏と相似形(約10分の1)です。
19mというと、6階建てのビルほどの高さになります。
この大仏が高さ50mの大仏殿(16階建てのビルに相当)の中央に座っている景色、想像できますか?

人間の大きさは写真右のロウソク立てのロウソクくらいではないかと思います。

この金銅でできた大仏が地震で倒壊後、再建されましたが再び地震で倒壊してしまいます。この倒壊した大仏は、徳川家により「寛永通宝」に改鋳され、大仏銭とも呼ばれるようになります。
この方広寺は、1586年秀吉が49歳で権力の全盛期のときに作られました。この年には徳川家康が大阪城の秀吉に謁見しています。
秀吉は1598年に伏見城で没し、秀頼の時代になりました。秀頼の後見人であった徳川家康は、秀吉の追善供養のためとして方広寺大仏再建を秀頼に薦めます。
しかし、これは豊臣家の財産を消費させることが目的だったといわれています。

この方広寺を歴史的に有名にしたのは、この鐘楼に吊り下げられている大梵鐘です。この鐘は1614年に再興した大仏殿の開眼供養にあわせて鋳造されました。この頃、豊臣家をしのぐ力をつけようとしていた徳川家康は、この鐘に刻まれた銘文に難癖(イチャモン)をつけたのです。

この大梵鐘の大きさは、高さ4.2m、外径2.8m、重量82.7トンというもの。この鐘の胴周りにビッシリと漢文が刻まれている。文字の2箇所に白い枠で囲まれた部分があるが、ここに「国家安康」、「君臣豊楽」と刻まれています。
徳川家に、もみ手・すり手の南禅寺僧侶以心崇伝(スウデン)、別名金地院崇伝、またの悪名を大欲山気根院僭上寺悪国師は、豊臣家に恩があるにもかかわらず、この大梵鐘の銘文は「家康を分断」し「豊臣家が栄える」と故意に曲解し、家康に告げ口をしたのです。

1614年7月、家康は大仏開眼供養の延期を命じます。この後、徳川家と豊臣家の関係は急速に悪化し、同年11月に大阪城冬の陣、翌年4月には夏の陣に突入し豊臣家は滅ぶのです。


豊臣家・徳川家の争いで最も得をしたのは南禅寺だったのかもしれません。応仁の乱により解体寸前にあった南禅寺を復興させたのは秀吉でした。
南禅寺の崇伝(スウデン)は、この秀吉の恩を裏切り家康についたことで、日本の僧侶のトップに上りつめ、南禅寺勢力は拡大し、豊臣家・徳川家が消えた現在も隆々とした寺勢を保っています。




鐘の紹介をするだけのつもりだったのが、調べるうちに南禅寺にまで話が広がってゆきました。方広寺は、200円の拝観料で本尊の
盧舎那佛(ルシャナブツ)坐像や秀吉が大切にした大黒天像(俵ではなく臼にすわり鎧をつけている珍しい姿)、倒壊した金銅大仏の破片などを見学することができます。写真も自由に撮影させてもらえます。  観光寺院としては有名ではありませんが、歴史が好きであれば是非訪問をおすすめします。



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