写真は秀吉を祭る豊国神社の正面通りです。
豊国神社の写真左側(北)には、かの方広寺があり、右側(南)には京都国立博物館があります。この場所一帯には1600年前後に巨大な大仏殿が建っていました。大仏は高さ19mあり、奈良東大寺の大仏(16m)をしのぐ日本一巨大な大仏でした。
写真右側に見える丘のような盛土と五輪塔が耳塚と呼ばれる場所です。写真撮影日は6月初旬で赤いサツキが満開でした。
豊臣秀吉の晩年、日本最初の外国侵略である朝鮮出兵(1592年〜1598年)を実行したときに、派遣した武将の論功行賞の検分のため現地で討ち取った朝鮮や明国の兵士の耳や鼻をそぎ落とし塩漬けにして日本に持ち帰るよう命じたのでした。 |
本来は敵の首を獲って持ち帰るところですが、遠隔地であることや腐敗を防ぐため耳・鼻の塩漬けになったようです。
もともと無理な出兵であった上、朝鮮の抵抗が考えていた以上に強く、日本側は厳しい局面に立たされていましたが、秀吉には苦しい事情を報告できない。
秀吉ワンマン社長の下でゴマすりサラリーマン化していた武将たちは、朝鮮兵士の耳鼻だけでは数が足りないため、民間の男女・子供まで耳・鼻をそいで塩漬けにし日本に送ったといわれています。
秀吉は1597年、塩漬けの耳・鼻の供養を行うため塚を築造し、京都五山(別格:南禅寺、一位:天龍寺、二位:相国寺、三位:建仁寺、四位:東福寺、五位:万寿寺)の僧侶により盛大に供養行事を行ったようです。
盛大な供養ということは朝鮮の被害者を哀れんだ行事というより、朝鮮での戦況の不利を隠すため強がりの情報操作だったとの見方があります。
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秀吉の朝鮮出兵は2度に分けて行われました。最初の文禄の役(1592〜1593)と2度目の慶長の役(1596〜1598)ですが、2度目の出兵の際に、秀吉が「鼻そぎ令」を出しました。
したがって、そいだのは耳ではなく鼻であったようで、塚は当初「鼻塚」と呼ばれていたいましたが、林羅山
が「豊臣秀吉譜」で耳塚と書いて以降、耳塚と呼ばれるようになったようです。
徳川幕府になり、朝鮮と交流が再開されましたが、日本側は朝鮮からの使節団が京都に立ち寄ったときなどは、この耳塚を簾(すだれ)で隠すなど対応に追われたようです。まさに歴史に残る負の遺産といえます。
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この場所で塚の写真撮影直後に、韓国からの修学旅行生らしき団体がバスで到着し大勢の若者が塚を取り囲みました。
戦争の傷、特に侵略された側の傷は何百年経ても癒えることはないのだろうと思わざるを得ない遺跡です。
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