京都三条大橋の東端から鴨川の対岸を見ると、飲食街のビルの谷間にお寺の屋根が見えますが、ここが豊臣秀次公と一族の墓所である瑞泉寺です。。写真右側には三条大橋が写っています。瑞泉寺の左側(南)は先斗町(ぽんとちょう)と呼ばれる花街(かがい)です。
夕刻になれば、手前の河岸にはカップルが等間隔に雀のように並ぶことで有名な場所ですが、このあたりが1600年頃には鴨川の中洲であったことを知る人は京都人でもほとんどいません。
そして、1595年8月に、この瑞泉寺のあった場所で、秀次公の一族39名が惨殺されたことも、いまでは知る人は少ないようです。
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上の写真の場所を地図にしてみました。瑞泉寺の東を流れるのは鴨川です。
西側には、1611〜1614年頃に京都の豪商角倉了以(すみのくらりょうい)が開削した運河である高瀬川が流れています。
1611〜1614年というと、豊臣家滅亡の冬の陣1614年、夏の陣1615年の直前頃になります。
この高瀬川と鴨川に挟まれて瑞泉寺から四条通りまでの約4百メートルが先斗町と呼ばれる花街(かがい)です。
この先斗町は鴨川河岸が整備された1700年代に出来た茶店街です。
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さて、同じ場所の1595年頃はといえば、現在の瑞泉寺がある場所は鴨川の中洲でした。
鴨川の西には秀吉が造らせた御土居(おどい)と呼ばれる巨大な堤防(城壁)があり、御土居の中を「洛中」、外を「洛外」としました。三条通りは東から洛中に入る正面玄関でした。
秀吉は、この御土居に沿って寺を強制移転させ、京都防衛の街造りをしたのでした。
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秀吉は実子である鶴松を幼少で失い、その後、子ができなかったため、1591年に実姉の子(甥)である羽柴秀次(33歳)に関白の座を譲りました。
それまでに秀次は戦や滋賀県近江八幡の街づくりで力を発揮しており相応の実力者でもありました。
秀次は京都御所近くの政務所兼大邸宅である聚楽第(じゅらくだい)に一族と住み政務を執りました。一方秀吉は、朝鮮出兵(征伐)に明け暮れていたのです。
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秀次に関白の座を譲ったあとの1593年、秀吉(58歳)に実子「秀頼」が誕生しました。
時をほぼ同じくして、秀次が遊びで人を殺すという噂が広まり、殺生関白と呼ばれていることを理由に、1595年秀吉は秀次を追放し同年8月高野山にて切腹させたのです。
では、秀次は本当に殺生関白だったのか?事実はわかりませんが、18歳で近江八幡(滋賀県)の街を整備し繁栄させ人民から慕われた人物であり、また当時の宣教師であるフロイスは秀次が聡明な人物であると記録していることから、秀吉の謀略のニオイがプンプンとします(あくまで個人的見解)
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秀吉は高野山で秀次を切腹させた直後、聚楽第に住んでいた秀次の実子と妻ら39名を三条の中洲に引き出し実子や妻(駒姫)は槍で串刺し、その他の女たちは首をはねました。三条大橋から多数の人々がこの光景を見たようですがあまりの凄惨さに慟哭したと伝えられています。
処刑された39名は中州に掘られた穴に投げ込まれ、その穴の上には巨大な台形の塚が造られ、その塚の上に秀次の首を入れた石びつ(写真中央)が置かれました。
その塚は秀吉によって「畜生塚」と呼ばれました。
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その後、異様な光景であった(畜生)塚は、鴨川の氾濫とともに形を失っていましたが、角倉了以が高瀬川を開削する折に鴨川の調査を行い、塚の後から秀次の首を納めた石びつを発見。1611年に瑞泉寺を建立して菩提を弔ったのです。
現在、瑞泉寺境内奥には、秀次の首が納められていた石びつを取り囲むように、一族39名と切腹した家臣10名、計49基の五輪塔が整然と並んでいます。
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瑞泉寺は観光寺院ではありません。観光気分では訪れて欲しくありませんが、一方、秀吉の栄光の伝記の陰で、このような凄惨な出来事があったことを、もっと知ってもらいたいとの思いも強くありこの場で紹介させていただきました。
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